2012年07月26日

民主党に投票した国民はバカ?

 民主党に票を入れたことで、いわゆる「識者」と呼ばれる人々から、「国民は甘い蜜に惑わされたバカ」というような発言があった。後講釈で何とも言えるから、識者とやらも節操のない人々であるが、慥かに奸徒を見抜けなかったことは認めよう。筆者も高速道路無料化には大いに期待させられたのだから。だが今でも高速道路無料化は必要だと思っている。まず都市、過疎地の流通が盛んになるだろうし、経済的効果は、管総理が知らなかった乗数効果というのも手伝い、数兆円規模の効果があったろうことが国交省の試算で明らかになっていた。マニフェスト発表当時も今も、通貨縮小(デフレ)の対策を取らない日銀や政府の金融政策を見ていると、これだけでも相当な経済効果があったことは間違いないだろう。
まあ、もう画餅に帰してしまったが。ガソリン税の暫定も取れてしまったし。これだけ無能かつ嘘で塗り固めた政党も珍しい。民呪党とでも改名したらどうか。或いは、民誣党(みんしゆとう、誣は、作り事を言う、事実を曲げて言う、という意味)か。

さて、「識者」とやらにお伺いしたい。
国民は、次期政権を担う党のマニフェストというある意味の契約書を信じて投票してはいけないというのだろうか。
信じてはならぬ、というのであれば、何を根拠に投票すれば良いのか
政党が挙げる約束事など選挙のためだけの美辞麗句に過ぎないのか。
そして、そういった裏の事情まで考えながら投票しなければならないのか
また、あのとき他党に入れる積極的な理由があっただろうか?
自民党が信じられたか?
公明党に頼れるか?
共産党に国の将来を託せたか?
その他の少数党に未来を賭けられたか?

馬鹿も休み休み言うものだ

法律では、「信義誠実の原則」というものがある。その原則の一つに、エストッペルの原則(禁反言)というものがある。これは「Aが一定の表示を行い、他者Bがその表示を事実として行った行為に対し、Aはそれと矛盾した事実を主張することはできない」という原則だ。簡単に言えば、「言ったことをひっくり返すなよ」ということだ。
まさしく、民主党はこの原則を否定しているのだから、政権政党どころか解党して出直すべきだろう。
こういう原則を考慮すれば、国民が民主党のマニフェストを信じて投票した行為は何等責められるべきではなく、民主党自身が責任を負うべきであろう。

しかし「識者」って、一体何が「識」なの?
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2012年07月25日

「苛め」は誰の問題?

 ボーボワールを気取れば、「人は人間に生まれない。人間になるのだ」ろう。非常に学習性の高いこのホモ・サピエンスは、環境によって様々に変わり得る。狼のような弱肉強食の世界の中で育てられれば、人は「非力な狼」になるだろう。狂信者に育てられれば、「自爆テロリスト」にもなるだろう。神に育てられれば、「神」になるかもしれない。
 しかし、何も影響を与えられなければ、生物であるが故の本能に従って成長するのではないだろうか。それは
●自己保存本能であり
●繁殖本能
だと思われる。つまり生物の基本的な行動を起こすに違いない。
 子供がまっさらの純粋な存在ではなく、抛っておけば、この基本的本能のまま、野生動物に等しくなる存在であることは、子供に接したことのある大人であれば理解できる。一方、本能を越えた存在になることもまた理解している。
 だからこそ、躾けや教育はどんな国でも、どんな民族でも最重要だと考えられているのだろう。

 「苛め」は何も特別な状況ではない。他の生物でも見られる。それは他者を排除し、自らが生き残るという生物の基本的な本能だ。何故なら競合者が減れば餌の取り分は当然増える(勝ったものから優先的に餌を得られる)。オスであれば、配偶者の獲得も容易になるだろう(メスに疎われてはダメだろうが…)。
 「苛め」(野生の中では「苛め」というよりは競争だが…)は、特に群れを作る動物で見られる。群れの中で順位を決定し、優秀な個体が群れを率いるようにするためであり、優秀な個体をまず生き残らせるという戦略があるからだと思う(遺伝学では劣敗した個体が必ずしも環境適合に不都合な遺伝子を持っているとは限らないのだが…)。
 しかし、人の「苛め」が決定的に違うのは、同じ群れであれば、同じ群れのメンバーを殺すまで追い詰めないのに、徹底的に追い詰めてしまうことがあるということだ。野生では、同種の個体を殺すことではなく、単に順位を決めることが目的だからだ。
 この点で人の本能は壊れているのかもしれない。動物界では「参った(逃避したり、服従姿勢を取ったりなど)」というサインが出されれば攻撃は止む。しかし、人はあまりにも柔軟性を持っているためか、それが仇となり、そのサインをサイン通りには受け取れない。それどころかそのサイン自体を社会から学ぶしかないようなのだ。
 となれば、サインを形成するまともな躾けがなされず、教育も受けられなければ、本能が壊れている部分、徹底かつ破壊的に現れるのではないかと思う。
 人は学ぶ(人を含めた周りの環境から)ことでその人格、性格を作っていくようになっている。この人を人たらしめる重要な部分が、兇器に化けるというのも非常に皮肉なことだ(詳細については動物学者や心理学者に聞いてみたい)
 「苛め」は子供の世界だけにあるわけではない。人の作るどんな社会でもそれは存在する。近年会社でのそれが問題になっていることは良く耳にする。本来ならいい大人が、よってたかって排除したい人間に攻撃を加えるというのは、見ていて気持ちの良いものではない、大人ということで智慧がある分、その虐めは陰湿で苛烈だ。彼らもまともな躾はなされてこなかったのだろう。

 古来から人は、「禽獣にも劣る奴」と呼ばれることが何よりも不名誉なことと考えてきた。だがよくよく考えてみると、禽獣の方が遙かに秩序だっている。無用な殺戮など行わない。

返って人はどうなのか?

禽獣を遙かに越える知力を持ち、自らを知り、環境を知り、自然の原理を、理解途上でありながらも理解し、応用する能力も持っている。
しかし、一度たりとも安寧とした社会を築けなかったのは何故なのだろうか。
人の歴史は、一面、殺戮の歴史でもある。
それは今も変わらない。
果たして変えることができるのだろうか。
それともアインシュタインが「第三次世界大戦がどうなるか、私には分からない。しかし、その次の戦争は、石と棍棒で戦うことになるだろう」と言うように自らの歴史を閉じてしまうのだろうか。

少なくとも子供たちには、躾と教育を与えなければならない。それはそうだろう。
だが、どんな躾と教育を与えたらよいのだろうか。
ここまで来て筆者は非常に悩んでいる。

子供たちは、その混乱している大人たちを透徹する目で見ている。
保身を図る教育委員会の大人たちのあの惨めで、なんの覚悟も真摯さもない態度を
苦情を訴えても大したことないと無視してしまう教師たちを
そして、希望も持てず、未来を示すこともなく、当たり障りなく生きている社会の大人たちを
それは恐ろしい程に。

「人を殺すなかれ」、えっ、大人たちは平気で殺しているじゃん。
「盗むなかれ」、万引きより遙かに巨額のものを盗んでるのに?
「自然を守ろう」、経済を優先して処理できない原発を運転してるね。何かあった時に被害を被るのは僕たちだよ。

果たしてそんな大人たちがどんな躾と教育を子供たちに与えればよいのだろうか。
言えば言うほど、ブーメランのように自分に返ってきてしまう。

………

まず「隗より始めよ」ということか。
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2012年07月24日

「たかが電気」ではない重要な問題

 坂本龍一氏が「たかが電気のために。この美しい日本の未来である子供の命を危険にさらすべきではない」と発言した。言いたいことは分かるが、「たかが電気」はマズイ。
 電力(エネルギー)は「たかが」どころか現文明の根幹だ。エネルギーを別のエネルギーに変えて成立しているのが現文明といっても良い。人々が情報を知るのも、彼のメッセージが届くのもエネルギーのお陰である。彼の仕事も電力が無くては成立しないだろう。多くの音楽機材(PA)は多量の電力を必要とするし、本当にエネルギーの使用量を減らしたいのなら世界中を飛行機で回るツアーは控え、住んでいる周辺で、アンプラグドで演奏した方が良い、ということになってしまう。

 単純かつ極端な言動は、原発廃止運動によい影響は与えない。

 エネルギーを必要としつつそれをどのように解決していくかを考えなければ、原発廃止には追い込むことはできない。

 現人類は何をするにもエネルギーを消費する。それも大量に。そうでなければ何一つできない。生きてゆくことさえ既にできなくなってしまった。
 文明を成立させるには、大量のエネルギー消費を前提とするから、消費量を抑えろといっても難しい。豪華なご馳走を目の前にあることを知ってしまった今、果たして梅干しでお茶漬けを食べることが可能か?
 それどころか米を生産することさえエネルギーなしには考えられない。ガソリンで動く機械抜きには全く不可能だ。手作業では江戸時代の人口2000万人程度くらいしか養えないだろう。現代の農業はいくつかの過程があるとはいえ、最終的には「喰えないエネルギーを食料に変換する作業」とみなせる。

 蛇口をひねればいつでも水が得られ、自動車や公共交通によって行きたいところに行け、店でいつでも食料が手に入り、夜は煌々とまるで昼のように明るく、テレビ、インターネットから情報、娯楽などが得られる。この利便さの根底にあるのがエネルギーである。中でも電力は非常に良質なエネルギーで使い勝手は大変良い。
 こういった生活を変えるべきなのだろうか、また変えることなどできるのだろうか。
 人類誕生当時、人は、飢えや疫病、害獣、闇夜の恐怖などに悩まされ、生活は不安定この上なかった。それを克服しながら現代に至っている。今でも全てが改善されているわけではないし、進歩したが故に逆に大きな問題を抱え込んでしまったところはあるが、それでも、以前の生活に戻ることなど考えられないだろう。よく「前は良かった」という発言を聞くことがあるが、それは生活スタイルが以前と劇的に変わり、精神の方が追いつかなくなってしまったという点が大きいのではないか。誰も戦国時代は当然として、明治や大正時代でもそこに戻りたいとは思わないだろう。もちろん変化によって新たな問題を抱えてしまったこともあるのだが…。
 電気によって以前は救われなかった命が助かっていることも事実である。MRIやCT,PETなど膨大な電力を必要とする機器や人工呼吸器や透析器、人口保育器など生命を救う手段は枚挙に暇はない。
 今の文明を維持しようとしたら、大小は別にして電力(エネルギー)は必要なのである。

 とはいえ、「だから原発だ!」とならないことはもう随分述べてきた。
 原発自体が不完全な構造物(技術)であり、それを設置する場所も、福島原発に利用されたMark1を製造したジェネラル・エレクトリクス(GE)が要求した条件を無視してて作ったことから分かるように、地震大国日本に原発を設置できる場所は、ほぼないのである。福島の悲劇はどこでも起こり得る。だからこそ東京、大阪などの大電力を必要とする場所に設置しないのだ。万が一でも事故があった時の被害の規模が違うからである。事故の確率が同じであれば、期待値(被害だから期待値というのも変だが数学用語だから仕方ない)は福島と東京では桁が違いすぎるからである。
 原発の問題はそれだけではない。百歩譲って万が一発電所自体が安全だとしても、原発自体が技術的に完結していない。最後まで面倒を見ることができない。つまり核廃棄物は安全に処理できないのだ。つまり「トイレのないマンション」と使い古された言い回しで、もう新鮮味を感じないかもしれないが、言っていることはこの上なく重要なこだ。
 高深度投棄を考えているようだが、この狭い日本国土のどこにも投棄しようというのだろう。またしても札束で頬を叩きながら、青息吐息の自治体を狙うのであろうか。たとえ広大な国土を持った他国であっても、10万年単位の管理が必要になる。人類にとってはほぼ無限な時間だ。こんなものをどう管理する?そもそも現人類が存在しているかどうかも分からない。これを未来永劫子孫に引き渡すというのなら狂気の沙汰といわずして何と言うのだろうか。

 エネルギーを作り出すことはできない(エネルギー保存則)から、
●今まで利用できない象(かたち)にあったエネルギーを利用できる象にする技術を得ること
●文明を永らえさせるために、エネルギー効率を上げる技術が必要
となる。
 電力でいえば、火力、水力で研究開発期間をの猶予を得、太陽光、揚力、地熱、新しい炭化水素燃料などの開発をしなければならないだろう。いずれ埋蔵されている燃料だけでは立ちゆかなくなるから、原発の危険性を再認識した今こそ、その研究開発を急ピッチで始めなければならない。このことは原発でも同じ事だ。ウランの埋蔵量は少ない上に、原油と同じように局在化しているから供給不安定である。高速増殖炉でプルトニウムを生産しようにもこれは絵に描いた餅であることが解ってしまった。にも拘わらず、撤退という決断ができないのは日本だけだ。科学技術よりも面子の方が優先する科学立国なんて、笑えない冗談だ。(自民党時代の政府は、原発ばかりではなく、核兵器として利用できるプルトニウムを欲しがったのではないか思う。今ではさすがにそんな考えは捨てただろうが…)。トリウムが次世代(?)の原発として一部注目されているようだが、トリウムはウランよりあるにしても、プルトニウムを生成しないだけで後の廃棄物は同じかそれ以上に発生するからこれを選択肢にすることはできない。

 エネルギーを大量消費しているのは、先進国ばかりで、それ以外の国の人々にとっては、そもそも蚊帳の外に置かれている。ソーラーセルを使って発電し自動車のバッテリーでLEDを灯すことで喜んでいる人々がいるのに、オール電化で多量の電力を使うというのも気が引ける。先進国がどのような生活スタイルにするのか決めなければならないだろう。そもそも資源自体が、数カ国の所有物であっていいのかどうか、考え直すことが必要な時期に来たのかもしれない(この相当難しい問題を果たして人類は解決できるのかどうか。それとも…)

 災害から再認識された原発問題は、今後の人類の在り方に大きな影響を与えている。しかも一国の問題でもない。チェルノブイリがそしてフクシマが示したように、まさしく世界規模の問題で、フクシマは終熄どころか不気味に現在進行している災害である。
 たとえ原発が炸(はじ)けなくても、核廃棄物は生まれ続ける。
 生物は放射性物質と共生できるものなのだろうか?
 それともそういう実験をしたいのだろうか?
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2012年07月18日

カタカナで呼ばれたいか?

 「エネルギー意見聴取会」は、結局茶番になっていることが明らかになったが、ある目的を決めてそれに誘導したいが為の、証拠作りであることが、明らかになっただけでも有益だったか。それにしても、将来原発の依存率
0,15,25%の案で、電気代の違いを示しているが、どういった条件で作られているのだろうか。
現在の電力3法を前提として試算したのなら意味はない。つまり電力を独占させ、原価総括方式でそれに利益を乗せるというやり方であれば、意味がないとないということだ。
電力3法を改正して、新規参入促進、発電、送電分離などの基本部分を変えない限り、将来どうなるかは述べることはできない。だいたいこの法律のせいで電力料金が高止まりしているのだ。コストを意識しない会社がまともな経営をするとでも思うのだろうか。
 太陽、風力、潮力や地熱などで今の電力量を賄うことは今のところ難しいことは慥かだと思う。主力は水力や火力に当分の間は頼らなければならないだろう。原油の調達やコストなど掛かることも事実だ。しかしそれも現状の原価総括方式で計算しているからでもある。コストが掛かれば電気料を上げればよいと安易に考えている会社に、廉価で安定的な原料調達などの努力を期待できるであろうか。残念ながら会社間の競争がなければ、会社は生き残ろうと努力はしないものだ。他の競争の激しい会社を見てみよ。どれだけ血の滲むような努力をしているか。
 いずれにせよ、当分の間は火力に頼らなければならないから、燃料の調達は急務だ。では日本がエネルギー輸出国となれるというメタンハイドレイトはどうなのだろうか。慥かに太平洋側では、深海にあるためその開発は難しいが、日本海側では、幸いなことに浅い位置にあることが分かっている。ならば、国を挙げてでも早急に調査、試掘など手がけるべきではないだろうか。使い物にならない高速増殖炉など予算を縮小し廃炉の行程に移るべきだろう。
 オーランチオキトリウムなどの「炭化水素」を生成する藻はどうか。琵琶湖程度の土地があれば、優に日本の一年分使用する燃料は生成できるという。実現できるのかどうか実証実験を即刻進めるべきだろう。
 とにかく、原発には頼れないという基本理念を持てば、打つ手はいくらでもある。事実、日本は様々な問題に立ち向かい解決してきたではないか。
 筆者が原発を容認できないのは、事故が怖いだけではない。もちろん国を、いやそれどころか地球を致命的に汚染してしまう未熟な技術に頼ることは怖い。しかし、それと同等に、或いはそれ以上に、原発から廃棄される高濃度の放射性物質の方を危惧する。人類はこの廃棄物の処理の方法を未だ知らない。比較的事故に安全だといわれるトリウム溶塩炉でも、プルトニウムを生成しないだけで現在の原発と同じように放射性廃棄物は発生する。根本的な解決にはならないのだ。
 「原発は必要悪だ」と達観している人々に問いたい。毒であっても、旨い実なら食べるのだろうか。中にはそういった御仁もいるらしい(河豚の肝をどうしても食べたいとか)が、これは個人の嗜好ではない、ことは国民全体(いや地球規模か)に及ぶ。その点を考えて発言して欲しい。そして考えて頂きたい。大震災にも耐え、事故を起こしにくく、しかも小型(1万KW程度)の方が都合が良いというトリウム原子炉であるならば、東京、名古屋や大阪など多くの電力を利用する地域に設置した方が遙かに効率的(送電線は限りなく短くできる)で、しかも廃熱さえ利用(暖房、冷房)できるのであるから、理想的だと思うのだが、これにはもちろん賛成頂けるのでしょうね、と。もし万が一否と答えるのなら、「それは欺瞞だ」と非難されても甘んじて受けて頂きたい。自分は嫌だが、地方に設置するなら補助金も出て潤うのだからそれは自治体の考え方次第ではないか、と答えるなら、それは身勝手と言わざるを得ない。
 自治体にしても、原発を誘致することで潤うと考えるのは止めた方が良い。実際原発が無くてもなんとか運営している自治体は多い、というか、ほぼ全てそうである。補助金といっても自由に使えるわけではなく、ほとんどが箱物にしか使えない。しかも時を経れば補助金も減らされていく。結局箱物の維持費が嵩み、また原発を誘致しなければならなくなるという悪循環に陥るだけだ(電力会社、政府はこれを狙っていたのだが…)。この例は既にある。麻薬だ。この呪縛から逃れるのは並大抵のことではない。それが補助金の実体だ。しかも、誘致賛成、反対と自治体の中で反目が起こり、自治体は二分されてしまう。これで自治体は子孫に未来を語ることができるのだろうか。世界からカタカナで呼ばれるようになることはないのだろうか。
 筆者はカタカナで、かつてあったニッポンなどと断じて呼ばれたくはない。
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2012年07月09日

冤罪の恐ろしさ-森ゆうこ様

拝啓 森ゆうこ様
狂気の民主党を脱党なされお忙しい日々をお過ごしのことと思います。
新党が何を目指し、何を実現させるかにつきましてはまだ未知数だとは思いますが、詐騙を用いて政権を奪取し、以後国民を裏切り続けた民主党に対し、一矢を報いて頂ければ幸いです。
では本編に入らせて頂きます。

冤罪は人を二度殺します。
一つは言われ無き罪において、もう一つは社会によって。
いまの刑事訴訟法では、検察の都合の良いように証拠が提出され、被疑者に有利な証拠は一切無視されます。
それどころかもう明らかになっているように検察、警察は証拠を捏造します。よくても証拠を隠蔽します。
これはもう法治国家ではありません。日本人は、シリアや北朝鮮、中国等の政治体制を嗤いますが、それと同等かそれ以上の劣悪な国家に成り下がりつつあります。
証拠は警察、検察によって都合良く利用されます。
証拠の取り方も必ずしも法的に正当性を以てえられるものでもありません。
アメリカでは、証拠採取の方法が法的に正当性を欠く場合、それは判事によって証拠排除命令が出され使うことはできません。この手続は非常に厳しく、たとえ捜査令状が出ていたとしても、その捜索範囲外で出た証拠は、証拠たり得ません。もちろん捜査令状を得ずして証拠は証拠にすらなりません。不当な捜査によって得られた証拠から派生した証拠も証拠として認められません(毒樹の果実、日本では旨ければどんな毒樹の実でも喜んで食べてしまう)。それが決定的な証拠になるだろうとしてもです。また、ミランダ警告を告げないで被疑者が告白したとしてもそれは証言になりません。
アメリカの司法制度が決定的に優れているとは思いませんが、少なくとも捜査訴追側と判事は完全に独立しており、特に判事は完全に中立性を保とうとする姿勢には羨望さえ覚えます。彼/彼女らにとって規範となるのは法律と判例のみで、訴追側の事情は一切考慮されません。これは訴追側と判事がまるで一体化しているかのようなのような日本から見ると驚くべきことです。日本の裁判官は、概して検察側を信頼する傾向が強すぎます。もの知らずなのか、とても中立とは思えません。
日本国民が願っているのは、無辜の民を陥れることではありません。罪を犯した者にそれなりの償いをさせたいと思うだけです。
そのためには、やはり法改正が必要で、
●完全なるデュープロセスに従わせること(従わない証拠は、容赦なく排除する)
●証拠は、検察の有利、不利になろうと全て開示させる
●逮捕時、尋問に弁護士の接見を認めること(手練手管を知り尽くした捜査官と素人が対峙することはバランス的に完全に非対称的になり問題があります。「無罪であれば裁判の時に言えば良い」などと誘導するのは危険きわまりない)
●完全ビデオ採取をすること(部分的には都合の良いように編集される虞があること、ビデオは録画のみだけで消去、編集できない機器を物理的に製作し使用すること)
●捜査官の暴力的行為があった場合は、即座に特別公務員暴行陵虐罪に問うこと
などの防止策が必要となるでしょう。
公務員は、どういうわけか無謬性を信じている(信じたい?)ようですが、多くの国民は神でない限りそれがあり得ないことであることは身に染みて分かっています。人は警察官、検事であろうが被疑者であろうが嘘をつくものです。ならば正当な証拠と証言によって犯罪の有無を問わねばならず、それに反する行為を禁ずる法を作らなければ、冤罪が減ることはないでしょう。
改正によって、犯人であるものが野放しになる危険はあり得ます。しかし、冤罪による復旧できない被害と対比すれば、冤罪の方を防止することの方が重要だと考えます。「無辜の不処罰」は厳然として守らなければならない鉄則です。多くの国民は、この冤罪について自分とは関わりないことだと考えがちで、まるで茹でカエルのようです。気付いた時はもう遅い。もう分かっても良い頃なのですが。本当に無知は罪だと思います。

警察、検察の不祥事は国民の生命と財産を脅かすことになります。
早急に改正が必要かと思います。
証拠を捏造する警察、検事など要りません。前田、田代両氏など法曹資格剥奪が適当です(アメリカなら司法妨害で資格剥奪と同時に法曹界から追放でしょう)。
国家の根幹を揺るがしかねないこの問題を常に考えて頂き政治活動されることを切にお願い申し上げます。

末筆ながら、時節柄ご自愛なされますよう、心からお願い申し上げます。

一石賢 拝
posted by Serendipity at 15:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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