2013年03月22日

早期英語教育への疑問

ご隠居はんと留はんの「量子力学」珍問答

LOTO6をはじめる前に読む本
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 英語と聞くと多くの方は尻込みする。どういうわけかコンプレックスがあるみたいだ。それで子供にはこんな気持ちにさせたくないのか、幼児から英語教育をさせようとしている。

う〜ん。違うと思うな。

 日本人が英語を苦手とするのは慥かだ。でもどうしてか、と考えたことはあるだろうか。

1.論理の建て方が全く違う
2.使う機会がない
3.間違えると恥ずかしい

こんなところだろうか。
1に関しては、論理の組み立て方が違おうと、アメリカ人でも日本語をきちんと話す人がいる、と言われればそうである。それは単に存在証明であって、英語を母国語のように話す日本人だっている、ということと同じだ。つまり必要性があって学べば語学とて他の習い事と同じ様に習得できないわけではない。しかしそれは言語による論理の組み方の違いを理解できる年齢になってからの話で、すべての幼児や小学生にそれを強要すべきなのか、ということだ(まあ、挨拶程度の英会話に馴れるという程度のことであれば、そうむきになることもないだろうが)。

 人は、言語によって自身を作り上げていく。言語は即ち、論理、感性、延いては文化に拘わってくる。日本語すら未熟である時期に、全く異質の言語を教え込むことが良い事なのだろうか。子供たちは、大袈裟に言えば、自身が何者であるか、悩みはしないだろうか。
 筆者が、アメリカに行くときは、脳の働き方を意図的に英語脳(モードを変える?)にする。飛行機に搭乗した時から慣れるようにしないと、言葉が上手く出てこないのだ(日本で話す機会も少ないということもあるが…)。これはおそらく多くの人が経験することだと思う。そして、現地に着いたら、現地の人と同じような振る舞いをしているうちにいつの間にかそれが自然になってしまう。
「偽アメリカ人」の出来上がりだ。
日本ではできないようなオーバーなシュラッグ(肩すくめ)も平気にできるようになるし、聞きたいこと言いたいことも遠慮なしに聞くこともできる。言わなければ彼らは理解できないからだ。それは能力ではなく、文化の違いに過ぎないが。言わなくても分かってくれるだろうと、期待する方が無理だ。ましてやアメリカのようにメルティング・ポットのような多種異文化国では、言わなければ全く分からない。
外国語をきちんと理解するには、その文化的背景や論理の組み方などを理解するしかない。

しかし、これを幼少期に行うことが良いのだろうか?

 まず日本語によって自己を確立させる。それから「外国語」として英語を習得させる。つまり、中学になってから英語を習わせることの方が、間違いなく良いと思う。
「な〜んだ。それじゃ今までと同じで、結局しゃべれないじゃん」と批判されるかもしれない。慥かに今まで通りでは、会話はできないかもしれない。でも言ってしまうと、どれだけ多くの人が英会話を必要とするのだろうか。多くは、読み書きを理解しなければならない機会の方が多いのではないだろうか。
 英会話が必要になれば、習得はそれほど難しいとは思えない。会話ができないのは、必要がないから、それほど切実ではないから、ではないかと思う。しゃべれたらいいなぁ、くらいではなかなか習得は難しい。でも仕事で切羽詰まれば、必死に習得するはずである。楽天みたいに社内「公用語」は英語(どうしてそうしたいのかは不明だが)、なんてなると必死に習うことだろう。
 英会話なんてこの程度。非難囂々だとは思うが、基本的にはこういうことだと思う。

 芭蕉の「閑や岩にしみ入る蝉の声」という句がある。日本人なら簡単に理解できるし、情景がありありと思い浮かぶことだろう。しかし、論理的に考えてみれば、蝉の喧噪が「閑や」に結びつけられるのはおかしいに違いない。実際、これをアメリカ人に説明しようとしても「はてっ?」と困るのではないか。だいたい英語に翻訳できるのだろうか。良い悪いではない。やはり文化が違うのだ。なんせ秋の虫なんかうるさいとして、殺虫剤を撒きにいくくらいの感性だからしょうがない。
 杞憂かもしれないが、筆者は、この感性の欠落を恐れる。子供が耳を塞いで「うるさい」と感じるようになるのではないかと恐れるのだ。

 多様な文化を否定するのではない。否定する権利も理由もない。アメリカ文化に感心するところもある。しかし、それは日本人として個が確立された上でのことで、未熟な状態で無防備に曝されて良いものとは思わない。
 よくテレビで帰国子女が流暢に英語を話す場面があるが、内容は乏しく、ただ流暢さだけが強調されているように見える。もちろんそういう演出なのかもしれないが、それだけでは最初は感心されるかもしれないが、内容が伴わなければ、きつい言い方をすれば、オウムと同じだ。オウムと会話が成立すると勘違いされている人がいたら、即座に病院に行くことをお薦めする。
 日本語で自己紹介や挨拶ができたとしても、それは当たり前と捉えられるだけで、経験や教養に支えられた会話ができなければ、その人は重んじられないだろう。国外でも同じことだ(もっと露骨で時間の無駄だと思われる)。例えば、盆栽、生け花、武道など日本文化に拘わることを訊ねても、なんの知見も意見もなければ、たとえ言葉が話せても、二度と声は掛けて貰えないだろう(はっきり言ってバカだと思われる)。むしろ会話が苦手でも、豊富な知識、見識があれば、訥々とした会話でも、アメリカ人は耳を傾け、なおかつ更に質問してくる。つまり、「会話」が成立するのだ。この方が遙かに意味があることだと思うがいかがだろう。
 あまり意味を認められない低年齢での英語教育をするのであれば、まずは、教養、徳育といった人間になるための教育を優先した方が、本人にも国のためにもなるんじゃないだろうか。
posted by Serendipity at 15:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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