2008年11月09日

小林よしのり対中島岳志論争、既に決着済みなのに!

小林よしのり氏と中島岳志氏(以下、敬称略)の論争(というより小林が一方的に論破して終わりなのだが…)で、一番気になったのは、中島の資料の引用の仕方である。あまりにも意図的なのである。
たとえば、「〜はである。しかし、〜」という記述は、前半だけ引用するのと、全体を引用するのでは意味が真逆になってしまう。もちろん前半だけ引用することは許されない。これは小学生なら既に理解していることであり、万が一誤読と主張しても通るものではない。明らかに何等かの意図をもって資料の意味をねじ枉げているとしか考えられない。このようなことが罷り通るのであれば、あらゆる主張もどんな資料からでも裏付けることができてしまう。
 文系の論文というものはそらおそろしいものだと小林は気付かせてくれた。余程知的誠実な著者でないと引用資料さえ捻枉げて都合の良いように引用(乃至は、資料に述べていないことまで、これは捏造だが)してしまうということが白日の下に晒されたわけだ。それも北海道大学という一応名の通っている国立大学の準教授でさえこうなのである。これには驚きを禁じ得ない。
 理系の場合でも慥かに何度か捏造された論文は存在する。しかし、一度(ひとたび)データの改竄や誤謬が指摘されれば論者の評価は格段に落ちる。データの改竄が発覚すれば、学者生命はそこで終わるだろう。しかし文系は相当にユルいのか、のうのうと準教授の肩書きのままである。教わる学生も堪ったものではない。
 中島の場合、小林の指摘に真摯に答えるどころか、討論まで要求してきている。これははっきり言って無意味であり小林の貴重な時間の浪費となる。中島としては、討論の要求に応じない場合、逃げたなどと言いふらしたいのかどうかは知らないが、そうではない。討論の意味がないのだ。つまり、資料をかのように都合の良いように引用、捏造してしまう論者とは討論そのものが成立しない。というのは、假に討論に望んだとしても小林は、常に「その言説の根拠資料は?」と中島の発言の度に問い返さなければならなくなるからだ。知的不実者とは、それほど討論ができないのである。
 最初に述べたように、資料の意図的な引用をするような者の著書など、「永久機関の実現の仕方」みたいな論文で、どこぞに送りつけても、即座に掲載を断られる類のものと思って間違いないが、文系の、特に言を弄している場合、どこからも査読されない以上、その正否を一般読者に求めるのはかなり難しいし、誤って世に広まることがあれば、これは大きな問題である。そこを小林は危惧したのであろう。小林の誠実さは感謝に堪えない。
小林は、もうこのような莫迦げた議論に付き合ってあたら貴重な時間を浪費する必要はない。
十分に一般読者には伝わったであろうから。


posted by Serendipity at 18:49| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
今話題のSTAP細胞の問題を連想しちゃいますね、小保方さんは嫌でも責任を取らされるでしょうが中島さんは特に責任を取らないまま言論活動を続けてますねホント理不尽な話だと思います。
Posted by 通りすがり at 2014年04月06日 08:24
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