2012年07月24日

「たかが電気」ではない重要な問題

 坂本龍一氏が「たかが電気のために。この美しい日本の未来である子供の命を危険にさらすべきではない」と発言した。言いたいことは分かるが、「たかが電気」はマズイ。
 電力(エネルギー)は「たかが」どころか現文明の根幹だ。エネルギーを別のエネルギーに変えて成立しているのが現文明といっても良い。人々が情報を知るのも、彼のメッセージが届くのもエネルギーのお陰である。彼の仕事も電力が無くては成立しないだろう。多くの音楽機材(PA)は多量の電力を必要とするし、本当にエネルギーの使用量を減らしたいのなら世界中を飛行機で回るツアーは控え、住んでいる周辺で、アンプラグドで演奏した方が良い、ということになってしまう。

 単純かつ極端な言動は、原発廃止運動によい影響は与えない。

 エネルギーを必要としつつそれをどのように解決していくかを考えなければ、原発廃止には追い込むことはできない。

 現人類は何をするにもエネルギーを消費する。それも大量に。そうでなければ何一つできない。生きてゆくことさえ既にできなくなってしまった。
 文明を成立させるには、大量のエネルギー消費を前提とするから、消費量を抑えろといっても難しい。豪華なご馳走を目の前にあることを知ってしまった今、果たして梅干しでお茶漬けを食べることが可能か?
 それどころか米を生産することさえエネルギーなしには考えられない。ガソリンで動く機械抜きには全く不可能だ。手作業では江戸時代の人口2000万人程度くらいしか養えないだろう。現代の農業はいくつかの過程があるとはいえ、最終的には「喰えないエネルギーを食料に変換する作業」とみなせる。

 蛇口をひねればいつでも水が得られ、自動車や公共交通によって行きたいところに行け、店でいつでも食料が手に入り、夜は煌々とまるで昼のように明るく、テレビ、インターネットから情報、娯楽などが得られる。この利便さの根底にあるのがエネルギーである。中でも電力は非常に良質なエネルギーで使い勝手は大変良い。
 こういった生活を変えるべきなのだろうか、また変えることなどできるのだろうか。
 人類誕生当時、人は、飢えや疫病、害獣、闇夜の恐怖などに悩まされ、生活は不安定この上なかった。それを克服しながら現代に至っている。今でも全てが改善されているわけではないし、進歩したが故に逆に大きな問題を抱え込んでしまったところはあるが、それでも、以前の生活に戻ることなど考えられないだろう。よく「前は良かった」という発言を聞くことがあるが、それは生活スタイルが以前と劇的に変わり、精神の方が追いつかなくなってしまったという点が大きいのではないか。誰も戦国時代は当然として、明治や大正時代でもそこに戻りたいとは思わないだろう。もちろん変化によって新たな問題を抱えてしまったこともあるのだが…。
 電気によって以前は救われなかった命が助かっていることも事実である。MRIやCT,PETなど膨大な電力を必要とする機器や人工呼吸器や透析器、人口保育器など生命を救う手段は枚挙に暇はない。
 今の文明を維持しようとしたら、大小は別にして電力(エネルギー)は必要なのである。

 とはいえ、「だから原発だ!」とならないことはもう随分述べてきた。
 原発自体が不完全な構造物(技術)であり、それを設置する場所も、福島原発に利用されたMark1を製造したジェネラル・エレクトリクス(GE)が要求した条件を無視してて作ったことから分かるように、地震大国日本に原発を設置できる場所は、ほぼないのである。福島の悲劇はどこでも起こり得る。だからこそ東京、大阪などの大電力を必要とする場所に設置しないのだ。万が一でも事故があった時の被害の規模が違うからである。事故の確率が同じであれば、期待値(被害だから期待値というのも変だが数学用語だから仕方ない)は福島と東京では桁が違いすぎるからである。
 原発の問題はそれだけではない。百歩譲って万が一発電所自体が安全だとしても、原発自体が技術的に完結していない。最後まで面倒を見ることができない。つまり核廃棄物は安全に処理できないのだ。つまり「トイレのないマンション」と使い古された言い回しで、もう新鮮味を感じないかもしれないが、言っていることはこの上なく重要なこだ。
 高深度投棄を考えているようだが、この狭い日本国土のどこにも投棄しようというのだろう。またしても札束で頬を叩きながら、青息吐息の自治体を狙うのであろうか。たとえ広大な国土を持った他国であっても、10万年単位の管理が必要になる。人類にとってはほぼ無限な時間だ。こんなものをどう管理する?そもそも現人類が存在しているかどうかも分からない。これを未来永劫子孫に引き渡すというのなら狂気の沙汰といわずして何と言うのだろうか。

 エネルギーを作り出すことはできない(エネルギー保存則)から、
●今まで利用できない象(かたち)にあったエネルギーを利用できる象にする技術を得ること
●文明を永らえさせるために、エネルギー効率を上げる技術が必要
となる。
 電力でいえば、火力、水力で研究開発期間をの猶予を得、太陽光、揚力、地熱、新しい炭化水素燃料などの開発をしなければならないだろう。いずれ埋蔵されている燃料だけでは立ちゆかなくなるから、原発の危険性を再認識した今こそ、その研究開発を急ピッチで始めなければならない。このことは原発でも同じ事だ。ウランの埋蔵量は少ない上に、原油と同じように局在化しているから供給不安定である。高速増殖炉でプルトニウムを生産しようにもこれは絵に描いた餅であることが解ってしまった。にも拘わらず、撤退という決断ができないのは日本だけだ。科学技術よりも面子の方が優先する科学立国なんて、笑えない冗談だ。(自民党時代の政府は、原発ばかりではなく、核兵器として利用できるプルトニウムを欲しがったのではないか思う。今ではさすがにそんな考えは捨てただろうが…)。トリウムが次世代(?)の原発として一部注目されているようだが、トリウムはウランよりあるにしても、プルトニウムを生成しないだけで後の廃棄物は同じかそれ以上に発生するからこれを選択肢にすることはできない。

 エネルギーを大量消費しているのは、先進国ばかりで、それ以外の国の人々にとっては、そもそも蚊帳の外に置かれている。ソーラーセルを使って発電し自動車のバッテリーでLEDを灯すことで喜んでいる人々がいるのに、オール電化で多量の電力を使うというのも気が引ける。先進国がどのような生活スタイルにするのか決めなければならないだろう。そもそも資源自体が、数カ国の所有物であっていいのかどうか、考え直すことが必要な時期に来たのかもしれない(この相当難しい問題を果たして人類は解決できるのかどうか。それとも…)

 災害から再認識された原発問題は、今後の人類の在り方に大きな影響を与えている。しかも一国の問題でもない。チェルノブイリがそしてフクシマが示したように、まさしく世界規模の問題で、フクシマは終熄どころか不気味に現在進行している災害である。
 たとえ原発が炸(はじ)けなくても、核廃棄物は生まれ続ける。
 生物は放射性物質と共生できるものなのだろうか?
 それともそういう実験をしたいのだろうか?
posted by Serendipity at 03:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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