2014年08月31日

「思想信条、言論の自由はある」普遍か?

「思想信条、言論の自由はある」という。
本当か?
少なくとも当たり前のように存在する権利ではないだろう?
これを保証する条件がいる。
例えば、イスラム主義国で神の悪口を一言でも言ってごらんなさい。
その日の内に吊されるでしょう。
それどころか女性が男に反論するだけで暴力を振るわれる。
だから、この権利を担保する社会が必要なのだ。
自由で民主主義を掲げる国家でなければならないのだ。
実際、韓国や支那に言論の自由があるか?
儒教主義だと宣う韓国で、僅かに親日的な発言をした老人を若者が殴り殺す、そしてそれを英雄視する。
こんな国が「自由と民主主義という価値を共有する大切な隣国」だとどうして言えるか?
幸いなことに多くの国際社会と同じように日本では言論の自由は保障されている。
だが、それをはき違えて、日本を破壊しようとする言論を行う者がいる。
殆どは取るに足らない讒言の類いではあるのだが、これも言論の自由ということで許されている。
しかし、先に述べたように、「思想信条、言論の自由」というのは、国なり社会によって担保されるものだ。
とすれば、その根幹を破壊しようとする言論は、許容されるべきなのか?
もちろん無闇に排除することは、言論統制に繋がりかねず、これも自壊への道を歩む。
それに、互いに主張し合って論駁すれば宜しい、という意見もある。至極真っ当な意見のように思える。

 だがしかし、国を破壊しようとする勢力は、国の内外に存在し、しかも組織的に歩調を合わせて仕掛けてくる。特に支那、韓国の工作は顕著であり、それに軌を一にする国賊がいるのも明らかである。
これはすでに言論の自由という範疇に収まる問題ではない。
戦争行為に等しい。

 昨今明らかにされた朝日新聞の「いわゆる」従軍慰安婦捏造問題などもそうだ。
これは新聞社という公器たるべき組織が、意図的に日本という国を毀損する明らかな意図を持って捏造報道をしたという由々しき問題だ。機が熟した暁には、外患誘致罪で断罪されるべき組織である。
これを単なる言論の自由という枠の中で処理していいものなのか?
明らかなプロパガンダであり、その災禍は計り知れない。

 批判は結構なことである。批判されなければ気づかないことも多い。しかし批判は、元の言説なり政策、施策などの改善(あるいは、相当の誤りがあれば撤回要求も含む)を促すものであるべきなのではないのか。つまりは生産的でなければならない筈だ。ただ批判して悦に入っているのは下劣で下策だ。

 明らかな悪意を持って、あることないことを捏造しそれを主張し、あまつさえ、虚偽によって国の根幹を揺るがすような行為に至れば、結局は、「思想信条、言論の自由」など、雲散霧消してしまうのは理の当然であり、これは「言論の自由」ではなく、明らかな「戦闘行為」と看做すことも考えなければならない。

 それにしても、日本国内で自らの安寧を貪りながら、一方で国を毀損する、あるいは破壊しようとする行為をなす者がいることが不思議でならない。まるで大木から果実などの恩恵を受けながら、その幹を斧で叩き切ろうとする矛盾する行為だ。敵意を持っている国がそのような工作に動くことは理解できる。弾の飛ばない戦争を仕掛けているからだ。しかし、それに同調し、あるいは彼らに使嗾されて動く日本人がいることが残念で仕方がない。ある者は思想洗脳されてか、あるいはハニートラップや大金に目が眩んだ者達かなのだろうが、自らは何処へ行くつもりなのか。晴れて侵略が完了したときに重用されるとでも思っているのか。だが裏切り者を重用する甘ちゃんな為政者などいない。裏切り者は、再度裏切るだろうと確信されるからだ。結局は利用され,最後は処刑されるなど悲惨な末路に至るだけだ。居場所など何処にもないのだ。

 国を売ろうという者よ、留まれ。
 さもなくば、永遠の流浪者になるか、あるいは、信じたものに殺されるだけだ。
posted by Serendipity at 15:48| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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