2016年11月27日

●フード・ファディズムには気をつけた方が良いと思う

 最近やたらとこれ食べたらダメ、あれ食べたら病気の元になると喧(かまびす)しい。例えば、牛乳、穀物(グルテン)、糖質など。でもこれってどれだけ科学的エヴィデンスがあるのだろうか。もちろん論文になるくらいだからそれなりの根拠があるとは思うが、医学系情報は過去の事例を考えると簡単に鵜呑みにはできない。
 少し前、焼き魚がガンの原因物質を含んでいるということで大騒ぎ(?)になったことがある。タンパク質の一つであるトリプトファンが熱せられてできるトリプP1に強烈な発ガン性があることが報告されたからだ。しかしこのトリプP1が危険だといっても、毎日継続的に2万尾にも及ぶ焼き魚を食べない限りガンの発症はないということが分かり、騒ぎは収まった。
 研究者は、こういう物質がどのようにできて、どのような作用をするのかを調べその結果を公表したのだろうが、常にセンセショーナルな情報を欲している報道機関によって、虚偽ではないにせよ針小棒大に伝えたことが事の発端だろう。そして「科学的なんたら」にすぐに飛びつく頭の良い「非科学的思考」の持ち主の人々の間で広まったのではないか?
 穀物、糖質(果実など)などは人類が誕生してから常に身近にあった食物であり、牛乳との接触はそれらより新しいかも知れないが、やはり食物として長い間人類と共にあったことは間違いない。大きな問題が発生すれば、今頃人類はとっくにそれらの摂取を止めただろう。害の方が大きければ人は生きていけないからだ。
 害の方が大きければ、人は麦や稲など栽培するはずもない。現実は、なんとか安定的に栽培できるように品種改良まで行い、栽培面積を広げている。
 穀物はなんと言われようが、長く人類の食生活の中心となっていた。パンやパスタ、日本ではもちろんお米、それにうどんなどに代表される麦は、人の命を支えてくれた重要な植物だ。それがいまや目の敵みたいにされているのはどうだろう。
 原因の一つに飽食があるのではないか。
 人類の歴史は餓えとの戦いだった(人類ばかりか従属栄養の生物はほとんどがそうだろう)。人類は飢えていた時代の方が長い。逆に自由にどんなものでも食べられるようになって、食生活がおかしくなってきたのではなかろうか。
 どんなものであれ、必要以上に摂取すれば、体も不調を来すだろうし病気にもなるだろう。ましてや飢えていた方が長かった人類ならなおさらだ。そう簡単に余分な摂取に対応できるような体に進化するはずもないのだ。
 たしかに、穀物に含まれるグルテンによってセリアック病(自己免疫疾患の一つ)が引き起こされる場合もあるだろう。古代ギリシャでこの疾患が記述されていることから、古くからあったことも分かる。逆に言えば、そういう問題がありながらも人類は穀物の摂取を止めなかった、という事実は重要だ。利が害を超えていたということだ。しかもセリア
ック病は、遺伝的要因が大きいとされる疾病(強いストレスなどでも起こる場合があるらしい)だから、体質的に受け付けない人はこれを避けさえすれば良いことのはずだ。それは牛乳の消化が困難な人と同じことだ。

 次に牛乳はどうだろう。これが体に良くないというのはかなり衝撃的だ。なにせ筆者の子供の頃は、多くの家庭で牛乳を取っていたからだ。玄関の所に配達された牛乳を入れておく箱があったことを覚えている方も多いだろう。それくらい栄養価が高い食品だと認識していた。牛乳の乳糖を消化できずお腹が緩くなる体質の人もいたが栄養価が高いという点には疑いはなかったように思う。
 それに世界を見てみると、例えばマサイ族は、牛乳と牛の血、そして特別な日に取る肉(飼っている牛)で暮らしている。ライオンを狩るということで狩猟民族のように勘違いされているが、彼等は野生動物の肉は食べない。ライオンを狩るのは通過儀礼のためで肉を取ることではないのだ(ライオンにとってはとても迷惑な民族だが…)。こういう事実をみてみると、牛乳が悪役にされるのは忍びない。もちろんマサイ族の牛のように自然の草を食べさせて育った牛と本来牛があまり食べない穀物など与え(グレイン・フェッド)肥育を促す様々な化学物質(成長ホルモンなど)を使って得た牛乳とでは違うだろうことは分かるが、そうであれば、そのようにして得られた牛乳を問題にすれば良いのであって、牛乳そのものを否定することにはならないのではないか、と思う。
 それとももっと本質的に問題があるのだろうか。乳ガンを引き起こす原因の一つとも目されているようだが、どのようなエヴィデンスがあるのか、少々疑問だ。
 先ほどのマサイ族はしっかり生き抜いてきている。まさか牛乳食に適するように「進化」したなどとは言わないだろうね。マサイ族がいつ出現したかは分からないが、それでも数千年(数万年でも良いが)程度で食生活が変わる程の進化などできないからだ(現在の知見に依れば、の話しだが)。

 最後に糖はどうだろう。これはたしかに問題があると思う。糖自体と言うより、これこそ「摂取過剰」が問題になるのではないか。最近の食品は、その多くに糖が多く含まれている。飽食に明け暮れたローマ時代の貴族以上に、多分糖は取り過ぎている。ご多分に漏れず、糖尿病の罹患率も上がる。清涼飲料水など糖の塊といっても良いくらいだ(アメリカでは、「リキッド・キャンディ」などと呼ばれている)。どこにでもあるから、特に甘味を欲しがる子供には注意しなければならない。

 個々の食品には様々な生理的作用があることは分かる。不都合な作用もあるだろう。しかし、それは長いスパンで見なければならないのではないか。今挙げてきたような食物が敵視(疑問視)されたのは最近のことだ。分析技術や研究が進んで、不都合な生理作用が分かったからに違いないが、歴史的に見れば、そういった不都合な部分をも含めて、益の方が大きかったからこそ、食品として定着してきたのではないだろうか。どんな食品にでも不都合な側面はあるだろう。しかし逆に言えば、不都合な側面を持たない「完全な食品」などあるのだろうか?科学的にピュアに選別してそういった食品(というよりは化学物質)を作って摂取すれば良いのだろうか。むしろこちらの方が背筋がぞっとする話のように思える。

 結局、様々な食を選択できる今こそバランスが取れた食物を適度に取ることが一番健康に良いのではないかと思う。
当たり前の事なんだけどね。

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参考(Wikipediaより)
フード・ファディズム (food faddism)

1. 食べもの(食べ物)や栄養が健康と病気に与える影響を、熱狂的、あるいは過大に信じること。
2. 科学が立証したこと以上にその影響を信じ固執していることであり、科学が立証したことに関係なく食べものや栄養が与える影響を過大に評価すること。
3.マスコミで流されたり書籍・雑誌に書かれている「この食品を摂取すると健康になる」「この食品を口にすると病気になる」「あの種の食品は体に悪い」などというような情報を信じて、バランスを欠いた偏執的で異常な食行動をとること。
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2015年06月26日

移民問題





 イタリアは今、ボートピープルに頭を悩ませているらしい。粗末な船で、しかも定員をかなりオーバーして漂流しているから助けない訳にはいかない。助けたら今度は、保護しなければならないというのが、EUの規約だという。しかしイタリアとて野放図に難民を受け入れらる筈もない。そこでEU全体で難民を受け入れるべきだと主張した。EUの意思決定機関は、各国のGDPによって案分して受け入れるよう勧告をしたようだが、結果は2分され、賛成派と反対派に別れているという。
 難民達はどうなるかというと、まずは身元をチェックされ収容施設に一次置かれる。その後難民指定されれば一定の住居と生活費などを支給されるという。しかし、そこで大人しくしている者ばかりではなく、イタリアを離れようとする者もいる。フランスは受け入れに消極的で、イタリアとの国境で彼らの入国を阻止した。だが驚くべき事に、ここで大人しく返る者達ではない。早速権利を主張し始めた。「通せ!」と。国境に居座り圧力を掛けているのだ。自国が荒れて食うや食わずで棄国をした彼らが、感謝ではなく権利を主張し始めた。慥かに気の毒な面はある。しかし、酷なことを言うようだが、自国に残って自由を実現させようとすらしなかったことも事実だ。
 近代社会では「人権」を盾にされると、殆ど何もできなるなる。できなくなるどころか、それに少しでも違う言論でさえ、抹殺される。議員であれば、辞職せざるを得なくなるほど追い詰められる。中世とは違った言論封鎖がまた始まっているのだ。
 ある民族が侵入することを「侵略」の一つの定義とすれば、これは「ソフトな侵略」ではないだろうか。武力を行使しようが、騙そうが、相手の親切心を利用しようが、結局は中に入り込むことに変わりはないからだ。そして後から来た者は、未来永劫大人しくしていることはない。

 細菌の話しをしよう(移民者を細菌と言って貶めているのではないから間違えないように)。細菌は、取り憑いた生物の免疫が強ければ、排除されるか、大人しくしているが、一度免疫が落ちれば、あっという間に宿主を乗っ取ってしまう。だがこれは細菌だけの話しではない。細菌に拘わらず、生物はそのようにして自らの勢力を拡大していくものではないのか。ここに善悪などはない。端から生物はそのように仕組まれている存在ではないのか。
 それが分かっているから、人類は自らの文化、慣習を守るために国を作って守ろうとしてきたのではないのか? だから自国の文化、慣習を守りたいなら、移民を安易に考えないことだ。国があってこそ人類の多様化を保持しているのではないか。それでいいではないか。別に国と国との交流をしないという訳ではないのだから。
 「人は他の生物と違う。互いの文化から学び昇華させることができる」などという者もいるが、どうやら歴史はそうでないことを示している。アメリカンネイティブ、オボリジニ、インカ帝国、等々、一方的に滅ぼされてしまった。もう彼らの文化、慣習は失われてしまった。記録としてしか残っていない。インカなど記録さえ危うい。
 別に彼らが劣っていた訳ではなかろう。ただ「侵略」に抗する力がなかっただけだ。それを劣っているというなら非情だが、そうかもしれないが。

移民に関しては、国民レベルで考える問題だと考えるべきだ。
ただ政府だけに任せてはダメなのだ。
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2015年06月19日

ガンという不思議





 ガンというのは、様々な解釈があるようだが、主流になっているのは、遺伝子が何らかの原因、放射線、化学物質、物理的刺激、などによって、傷つけられそれが成長したものだという。
 しかし、よく考えてみると、その遺伝子の傷つけられ方というのは、一様ではないはずだ。
AさんとBさんと個人が違えば、例えば同じ大腸ガンでも、傷つけられた遺伝子の箇所は違って当然だと思うのだが、病態は非常に似ているし、それに同じ治療をされる。
 不思議じゃないか?
 それとも傷つけられる箇所は、人が変わっても、切れやすい場所があるとでも言うのだろうか。

 さらに不思議なのは、ガンがまるで人体の構造を知り尽くしたように、人の生体システムを上手く利用しながら、まるで「寄生生物」であるかのように振る舞うことだ。自らに栄養を送るために、新生血管は作るし、免疫系を騙したり無力化させたり、やりたい放題だ。だから「新生生物」と呼ばれるのかも知れないが、多少情緒的だが、「そこまでやるか?」と言いたくもなる。それに「生物」なら自らの宿主を殺してどうしようと言うのだろうか。
 全くもって奇々怪々だ。
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2015年06月03日

偽金貨の袋を特定するには?−ご存じかも知れませんが、この問題好きなんです!−





ご存じの方は黙っていて下さいね!

「たくさんの金貨の入った袋が3つあります。この5つの袋の1つはすべて偽金貨だと言います。
一回だけ秤を使って計量ができます。さて、どの袋が偽金貨でしょうか?
金貨の重さは100g、偽金貨の重さは110gとします」

どうです、解けましたか?
この問題が解けた方は、かなり地頭が良いと、自負してもいいですよ!
(まあ、シェルドレイクの形態形成場仮説からすると、この問題の答えを知っている方はかなりの数になるので、この問題が最初に出された時とは違い、現時点で思いつく人の確率は相当上がっているでしょうけど(笑))
しかし、じっくり考えるのは頭のトレーニングに良いということですので是非挑戦して下さい。

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実はこの問題は、「刑事コロンボ『殺しの序曲』」の中に出てきた問題です。「刑事コロンボ」はもう50年以上も前のドラマですが、今見ても新鮮なのは、脚本とコロンボ役のピーター・フォークの演技の賜物でしょう。機会があれば是非ご覧下さい。それはさておき、解答を挙げます。

3つの袋をA,B,Cとしましょう。
まず、Aの袋から金貨を1枚取り出します。
次に、Bの袋から金貨を2枚取り出します。
最後にCの袋から金貨を3枚取り出します。

すると、手元には6枚の金貨が得られます。
ここで一回限り秤が使えるので6枚の重量を量ると、
もしAが偽金貨であれば、610g
もしBが偽金貨であれば、620g
もしCが偽金貨であれば、630g
となるはずです。従って、どの袋が偽金貨であるか分かります。

さて、話しはここで終わりません。今の問題では、金貨と偽金貨の重さが分かっていましたが、実際にはこれらの重さは分からないのが普通です。そこで、これらが分からない場合はどうなるでしょうか。
考えてみましょう。
まず、
金貨の重さをxg
偽金貨の重さをyg
とすると、すべての袋が真正な金貨であれば、もちろん6xとなるはずです。ここで秤を一回使って重さを量ると、620g
になったとしましょう。すると、以下の場合が考えられます。

1y+5x=620
2y+4x=620
3y+3x=620

これではダメですね。金貨と偽金貨の重量は分かっていないと解けません。

ここで何が言いたいかと云えば、ある定理があるとします。

「この前提条件を満たせば、こうなる」

という場合、いかに前提条件が重要であるかを知って頂きたいということです。

最近、経済なのですが、「何とかの定理」でこうなります、などという説明が多いのですが、「はて、その前提条件は?」
とツッコみたくなることが多々あります。例えば、「失業しても必ず就職する」という前提条件が満たされないのに、満たされるかの如く、それを前提条件とする定理を適用してしまう。或いは、「人は必ず経済において合理的に振る舞う」などとあり得ない前提条件で、定理を語る。
しかし、前提条件が満たさなければ、何も言っていないことに等しい、ということを国民は理解した方が良いですね。

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刑事コロンボ 「殺しの序曲」

「世の中てな不思議ですねえ。
あたしゃ、どこ行っても秀才にばかりに出会ってね。
いやあなたやこのクラブだけじゃないんです。
お分かりでしょう。
学校でも頭の良い子は大勢いたし、軍隊初めて入ったときにも、あそこにも恐ろしく頭の良いのがいましたよ。
ああいうのが大勢いちゃ刑事になるのも容易じゃないと思ったもんです。

あたし考えました。
連中よりせっせと働いて、もっと時間掛けて、本を読んで、注意深くやりゃあ、ものになるんじゃないか。

なりましたよ。

私はこの仕事が心底好きなんです。」
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2015年06月02日

「モンティー・ホール問題」ってご存じ?

「モンティー・ホール問題」ってご存じでしょうか?
難しい数学の問題じゃないのでご安心を!まあ、問題というよりは、クイズですね。
こんなクイズです。
「A、B、Cという箱があります。このどれかに当たりが入っています。
まず、あなたは、この箱の内どれか一つを選びます。
すると、モンティという司会者が、あなたの選んだ箱以外で、ハズレの箱を開けます。
そこでモンティは、『あなたが最初に選んだ箱を変えますか、変えませんか?』と尋ねます。
さて、あなたは、箱を変えた方がいいのか、変えない方が良いのか、どちらでしょう?」

あなたならどうしますか?
「どちらの箱も当たるのは、半々だから、変える必要はない」と思われたのではないでしょうか。
「だって、2つの箱しかなくなるのだから、確率は50%でしょう?」と仰るかも知れません。
ところが答えは、
「変えた方が当たる確率は2倍になる」
です。

驚きましたか。

この問題には、なんと博士号を持つ人千人を含む一万人にも及ぶ「間違った」回答があり、「…数学の専門家として、わたしは一般市民の数学理解力がお粗末なことを懸念しています。どうぞ間違っていたことを素直に認め、今後はもっと注意をなさってください」と断言した数学教授もいたほどです。

数学者でさえ間違えるのですから、数学者でない私たちが間違えてもおかしくはありませんね。
しかもちょっと安堵したりして!

では解説です。

A、B、Cの内、まず仮にAを選んだとしましょう。この時点で当たる確率は、1/3です。ですから、B、Cのどちらかに当たりがある確率は、2/3です。
ここでモンティは、B、Cの内、必ずハズレの箱を開けますから、仮にBがハズレならCが当たる確率は2/3、同様にCがハズレなら、Bが当たる確率も2/3となります。
ですから、変えた方が、2倍も当たる確率が上がるのです。

ときに「常識」と言うものは、数学的事実とは違うことがあります。
ですから、「あまり好きではない」かもしれない数学も少しは役に立つのではないでしょうか。

 モンティー・ホール問題を正確に解いたのは、マリリン・ボス・サヴァントという女性で、彼女自身が持つ「マリリンにおまかせ」というコラムで発表しました。彼女は、10歳の時、IQ228と認定された世界で一番頭の良い人間としてギネスに登録されたそうです。これは10歳時、精神年齢23歳程度ということですから凄いことですね。基本的にいわゆる「地頭」が良いということでしょう。
 しかし元々IQは100以上の数値の意味は明確ではなく、100を大幅に下回る数値しか出せない人を探し出してケアするという意味合いが強かったので、ちょっと数値が一人歩きしている感はあります。
 例えば、誰でもご存じのアインシュタインは推定で160〜190という数値だそうです。どうやってその数値を出したかは分かりませんが、物理学を学んだ者にとっては、「それがどうした?」という感覚です。今のところ宇宙の構造を探るには、彼の創り上げた一般性相対性理論に頼る他はありません。ニュートンが力学で物理学の歴史の輝かしい成果を上げたように、アインシュタインは、彼の力学を再構築したのですから、やはり大天才と言わざるをえません。それもたった一人で創り上げたのですから驚愕の一言です。

 ですから、普通に社会生活を送れれば、あまりIQにこだわる必要はありませんね。



posted by Serendipity at 21:04| Comment(3) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月31日

「思想信条、言論の自由はある」普遍か?

「思想信条、言論の自由はある」という。
本当か?
少なくとも当たり前のように存在する権利ではないだろう?
これを保証する条件がいる。
例えば、イスラム主義国で神の悪口を一言でも言ってごらんなさい。
その日の内に吊されるでしょう。
それどころか女性が男に反論するだけで暴力を振るわれる。
だから、この権利を担保する社会が必要なのだ。
自由で民主主義を掲げる国家でなければならないのだ。
実際、韓国や支那に言論の自由があるか?
儒教主義だと宣う韓国で、僅かに親日的な発言をした老人を若者が殴り殺す、そしてそれを英雄視する。
こんな国が「自由と民主主義という価値を共有する大切な隣国」だとどうして言えるか?
幸いなことに多くの国際社会と同じように日本では言論の自由は保障されている。
だが、それをはき違えて、日本を破壊しようとする言論を行う者がいる。
殆どは取るに足らない讒言の類いではあるのだが、これも言論の自由ということで許されている。
しかし、先に述べたように、「思想信条、言論の自由」というのは、国なり社会によって担保されるものだ。
とすれば、その根幹を破壊しようとする言論は、許容されるべきなのか?
もちろん無闇に排除することは、言論統制に繋がりかねず、これも自壊への道を歩む。
それに、互いに主張し合って論駁すれば宜しい、という意見もある。至極真っ当な意見のように思える。

 だがしかし、国を破壊しようとする勢力は、国の内外に存在し、しかも組織的に歩調を合わせて仕掛けてくる。特に支那、韓国の工作は顕著であり、それに軌を一にする国賊がいるのも明らかである。
これはすでに言論の自由という範疇に収まる問題ではない。
戦争行為に等しい。

 昨今明らかにされた朝日新聞の「いわゆる」従軍慰安婦捏造問題などもそうだ。
これは新聞社という公器たるべき組織が、意図的に日本という国を毀損する明らかな意図を持って捏造報道をしたという由々しき問題だ。機が熟した暁には、外患誘致罪で断罪されるべき組織である。
これを単なる言論の自由という枠の中で処理していいものなのか?
明らかなプロパガンダであり、その災禍は計り知れない。

 批判は結構なことである。批判されなければ気づかないことも多い。しかし批判は、元の言説なり政策、施策などの改善(あるいは、相当の誤りがあれば撤回要求も含む)を促すものであるべきなのではないのか。つまりは生産的でなければならない筈だ。ただ批判して悦に入っているのは下劣で下策だ。

 明らかな悪意を持って、あることないことを捏造しそれを主張し、あまつさえ、虚偽によって国の根幹を揺るがすような行為に至れば、結局は、「思想信条、言論の自由」など、雲散霧消してしまうのは理の当然であり、これは「言論の自由」ではなく、明らかな「戦闘行為」と看做すことも考えなければならない。

 それにしても、日本国内で自らの安寧を貪りながら、一方で国を毀損する、あるいは破壊しようとする行為をなす者がいることが不思議でならない。まるで大木から果実などの恩恵を受けながら、その幹を斧で叩き切ろうとする矛盾する行為だ。敵意を持っている国がそのような工作に動くことは理解できる。弾の飛ばない戦争を仕掛けているからだ。しかし、それに同調し、あるいは彼らに使嗾されて動く日本人がいることが残念で仕方がない。ある者は思想洗脳されてか、あるいはハニートラップや大金に目が眩んだ者達かなのだろうが、自らは何処へ行くつもりなのか。晴れて侵略が完了したときに重用されるとでも思っているのか。だが裏切り者を重用する甘ちゃんな為政者などいない。裏切り者は、再度裏切るだろうと確信されるからだ。結局は利用され,最後は処刑されるなど悲惨な末路に至るだけだ。居場所など何処にもないのだ。

 国を売ろうという者よ、留まれ。
 さもなくば、永遠の流浪者になるか、あるいは、信じたものに殺されるだけだ。
posted by Serendipity at 15:48| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「吉田氏が言うような『強制連行』ではなく、女性たちが自由意思を奪われた『強制性』を問題とした。」---はぁ?

 女性は売春行為などしたがるものではない、という前提でものを言っているようだが、それは大いに疑問だ。
 現在の自由で民主主義の国、女性があらゆる分野で活躍できる先進国で、敢えて売春を選ぶ女性はいる。それも虐げられたり騙されたりして、奴隷とされているのではない。こういう物言いはむしろ彼女らの人格を否定することになるだろうし、彼女らの自由意思をも侵すことになる。しかも売春をする女性が貧困層かといえば、そうでもなく、高学歴で裕福な女性もいる。
 極めつけは、多くの国が売春を合法としていることだ。
 高福祉士国家としれ知られている北欧のフィンランド、スウェーデン、ノルウェー、デンマークなどがそうであり、オランダ、イングランド、フランス、スイス、オーストリア、ポルトガル、ギリシャ、ハンガリー、ポーランド、チェコ、ドイツ(ドルトムント)などヨーロッパでは多くの国が認めている。アジアでもタイ、シンガポール、インドネシア、インドなど。ニュージーランドやオーストラリア(シドニーとメルボルンでは禁止)、台湾。南米では、アルゼンチン、ブラジルなど。アフリカでは、南アフリカ、チュニジア、モロッコなどがある。アメリカでも州によっては合法(ネバダ州)なところもある。
 女性の生き方は多様であり、売春という行為にのみ焦点を当てるのは、むしろ女性の能力の一部を阻害することなのかもしれない。

 では、売春が合法であった戦時中はどうなのだろうか。もちろん、すべての女性が望んで売春を行ったわけではないことは分かる。しかし家族を食べさせるために敢えて覚悟を決め選んだものも居るだろうし、親に売られてしまった娘達もいたことだろう。あるいは悪い女衒に騙されたこともあるだろう。これはこれで犯罪なのだが、泣き寝入りが多かったとは思う。しかし、彼女らが一銭の対価も貰わずに働かされていたかといえば、そうではない。賃金は受けていたし、実家に送金さえすることは可能だった。要は商売として成立していたのである。売春が合法の時代だから誰もこそこそと陰に隠れて運営する必要もないし、軍も隠す必要はない。軍に追従して移動していたのは、需要があったからだ。有り体に言えば、儲かったからである。軍は軍で、規律の安定を計るために兵士の欲望を満たしてやる必要があった。互いに必要としていたのである。敢えて軍が直接女性を調達する必要など全くないのだ。もちろん軍は、こういう場所に今度行くから店を開いてくれ、くらいの連絡は業者にしただろう。しかし強制など必要はなかったのである。
 それはミットキーナで米軍に保護されたという女性達の証言からも明らかになっている。当時米軍はもちろん敵軍であった。だから、「日本軍は慰安婦達をまるで奴隷のように扱っている」という話を捏造し、それを世界に喧伝すれば有利になっていただろうが、それとは真逆の報告をしている。こういうところが米のおもしろいところで、調べればすぐに分かってしまうような嘘はつかない(後で大きな問題になるからだろうが)。
 慰安婦達は、化粧品の購入や行楽など、仕事以外では自由であったことが報告されている。虐待など全くなかった。これは米のナショナル・アーカイブに問い合わせれば、誰でも資料を貰える。実際、テキサス親父の愛称で知られるトニー・マラーノ氏は自身の手で入手している。筆者も読んだ。

 今の感覚で当時を計ることは注意がいる。今から見ればおかしいと思うことが当時は常識であったことを、今の感覚で批判しても意味はない。意味があるとすれば、当時それが常識であったことを踏まえて、これからどうするのか、という設問を建てることだけだ。遡及して当時を裁いても意味はないのである。だからこそ現代の刑法では遡及効を認めない(某国では違うようだが)。

 そこで冒頭に挙げた朝日の言い訳である、「女性達が自由を奪われた『強制性』を問題とした」という文章だ。娘を売ってしまったという哀しい親であっても、どういう事情があるにせよ、自ら選んだ女性でも、その対価は得ている。純粋に商売であった。しかも合法。だとすれば、その対価に見合う仕事はしなければならない。これは今も昔も同じことだ。仕事の内容が違うだけである(諄いようだが合法)。今でも対価を得ておきながらそれに見合う仕事を放棄すれば、民事はもちろんこと刑事でも裁かれることになる。
 それを「強制性」と言うのは問題のすり替えだ。対価を得てそれに見合う仕事をしなければこちらの方が問題だろう。それに誰が「強制」したのか、という話になる。誰も強制などしていないではないか。「娘の意思に反して」というなら、それは娘を売った親と子の問題であり、業者には関係がない。業者はやるべき事はしている。自らの意思でこの仕事に就いたのであればなおさらだ。個々人の事情など現在でもある。女衒だ騙したのであれば、女衒の問題であり、騙し騙されることは現在でも大いにあることだ(もちろん突き詰めれば犯罪がろうが)。例えば、「当社では、就業時間は9:00から17:00までです。残業代も出ます」と言いながら、就業時間は守らないは、残業代も払わない、というブラック企業のようなものだ。しかし、これと「真っ当な商売」とは峻別すべきで、個々の業者の問題に還元される。

繰り返して言うが、当時の売春が合法であったことが良いとか悪いとか言う問題ではない。当時社会はそれを認めていたのだ。

こういう事を言うと眉を顰める者もいるかもしれないが、何のことはない、未来の子孫達は、現在の我々の法律にも同じように眉を顰めるかもしれないではないか。人間も社会も完璧ではない。その時代の社会規範があるだけだ。それを今の目線で偉そうに批判しても、それは自らの浅慮を嗤われるだけだろう。

まさしく朝日およびそれに近い新聞社はこれをやった。己だけが正義であり、これを認めない者は愚者であるかのような態度であった。しかも虚報であることを重々知りながら喧伝し続けた。お陰で日本の信頼は毀損された。これは万死に値するであろう。それに単に「虚報」であったかどうかも怪しい。おそらくは、捏造してまでも、日本の信頼を毀損しようという明確な意思を持っていたと思われる。これが日本の新聞社のすることか?批判はあるだろう。日本政府も完璧ではない。だから批判は結構だ。しかし、事実でないものを取り上げて、まるで闇討ちにするような行為は許されるものではない。批判するなら、細心の注意を払って、事実に基づいて正々堂々と報道すべきである。そうでなければ社会の木鐸などと、偉そうに言うべきではない。事実を確認しないで報道など言語道断だ。

韓国との関係で言えば、1945年以前の問題は最終的かつ完全に解決している。ご存じの通り1965年の「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約」、いわゆる「日韓基本条約」だ。これは韓半島(ここが重要)の正当な政府、韓国として、として日本と締結している。だから北朝鮮もこれに含まれている。問題が起これば、韓国が北朝鮮と交渉することなり日本は関係がない。そして、「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」いわゆる「日韓請求権並びに経済協力協定」によって、莫大な支援金(補償金ではない)を払っている。これは韓国が、1945年以前に何らかの損害を受けた者に対する支援金でもあった。しかし、韓国政府は殆ど個人に対して支払わず、インフラにつぎ込んでしまった(これを最近まで韓国政府は国民に知らせなかった)。どのように使うかは、慥かに韓国政府の裁量だが、この問題に関しては、もう既に日本の手を離れている筈のものである。
 だから万万が一、慰安婦の問題が発生しようと、それは韓国国内での問題であり、韓国政府が保障なり、機関を作って対処しなければならないことなのだ(もちろんさんざん述べた通り捏造だが)。
 東海大学の韓国人の女性助教が、よく「第三条での問題が発生したのだからこれに基づいて処理すべき」と頓珍漢なことを言っているが、これは、「日韓請求権並びに経済協力協定」の第三条第一項にある「この協定の解釈及び実施に関する両締約国の紛争は、まず、外交上の経路を通じて解決するものとする。」を意味していると思われるが、これはあくまでも支援金の分配に関することであり、「日韓基本条約」で「完全且つ最終的に解決」という条項を前提としてあるものであり、「問題」を蒸し返して良い、ということを意味しているものではない。
 口先だけの助教であるから、知ってか知らずか、あるいは、「第三項まで読んではいないだろう」という策謀を含めて虚偽を述べているだけのことである。

 従って、日本政府の失策は、この条約があるにも拘わらず、いわゆる「人道的な配慮」から、アジア女性基金など創設し支援してしまったことだ。そもそも問題を大きくしてしまったのは、こういった一見配慮のある行動が、実は取り返しの付かない問題を引き起こしてしまうということに思慮が及ばなかったことにある。慥かに、米国からは当時戦略上から韓国を蔑ろにできず、圧力を加えられていたことも、十分にあっただろう、しかし、浅慮であったことは否めない。
いつもなら「優等生」よろしく、条約をきちんと守る日本政府が、一体どうしてこの条約を守り、守らせなかったのか、悔やまれてならない。もちろんその背景には、反日組織たる朝日新聞などの報道機関が捏造記事で煽ったことも大いにあるのだが。

 しかし、もう政府も日本国民も十二分に学習したことだろう。授業料は慥かに高く付いたが、韓国という国が結局は裏切るということを骨の髄まで知ったことには意味がある。要は、同じ過ちを繰り返す愚者にならないことを心に留めることだ。

 韓国は西側陣営(もうこの表現も古いが)の防波堤にはならない。急加速的に支那に寄り添っている。間違いなく、支那の属国あるいは、自治区になるという歴史の必然に従うだろう。在韓米軍も2015年の戦時統帥権を韓国に引き渡し、撤退を決めている。米国も匙を投げたのだ。
ならば日本も韓国が支那にすり寄るのも傍観するのではなく、加速させてやれば良い。敵国は少なくした方が対処しやすい。防衛戦略もこの動勢を受けて変更するべきだろう。
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2012年04月25日

無免許運転で大惨事、危険運転致死罪では?

 京都での少年による無免許運転事故で3人(胎児を含む)が死亡した。また2人が意識不明だという。何ともやるせない痛ましい事故であるが、事故は事故であるが、単なる過失致死罪で良い「事故」なのか。ちなみに運転免許を持っていると、業務上過失致死罪となり、通常の過失致死罪より重くなる。

これって変じゃないか?

もう先回りして、無免許であることが、運転技術がないことであるかどうかの判断にならないと、法律関係者が述べ始めている。

おかしくないか?

無免許であると言うことは、「技術的」に未熟ということと同値ではないのか。
もしそうでないとするなら、ブラックジャックは大手を振って医療ができることになる。並の「免許」を持った医師(それどころか超一流なのだが…)より遙かに「技術」が高いのだから。
被疑者が、無免許で医療行為をしたなら、果たして、免許の有無に拘わらず、技術があるかないかで、犯した犯罪の判断材料とするのか?
そんなことはありえないだろう。
まずは、原則として、危険運転致死傷罪で起訴し、量刑を判断するというのが真っ当な法の在り方だと思うのだが、どうだろう?
少年は、無免許運転を何度も繰り返していたという。
少年である以上、保護者の責任も問われるだろう。
しかし、最近の親はどうして子供をまともに躾けることができないのだろうか。
これは別の疑問だが…
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(危険運転致死傷)
刑法第208条の2
アルコール又は薬物の影響により正常な運転が困難な状態で自動車を走行させ、よって、人を負傷させた者は15年以下の懲役に処し、人を死亡させた者は1年以上の有期懲役に処する。その進行を制御することが困難な高速度で、又はその進行を制御する技能を有しないで自動車を走行させ、よって人を死傷させた者も、同様とする。
2 人又は車の通行を妨害する目的で、走行中の自動車の直前に進入し、その他通行中の人又は車に著しく接近し、かつ、重大な交通の危険を生じさせる速度で自動車を運転し、よって人を死傷させた者も、前項と同様とする。赤色信号又はこれに相当する信号を殊更に無視し、かつ、重大な交通の危険を生じさせる速度で自動車を運転し、よって人を死傷させた者も、同様とする。

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2011年10月30日

「すき家」が問題なのか?



 深夜営業している「すき家」が強盗に狙われているという。マスコミでこれだけ騒げば、それに気がつかなかった潜在的犯罪者も気付くだろう。だが、10/30付産経新聞を見てみたら警察庁関係者の話としてこんな事が書いてあった。
「『すき家が隙だらけ』ではシャレにならない。被害者ではあるが、強盗を誘発している側面は否定できない」だと。まさしく我が目を疑った。被害者ではあるが、といいながら、何等対策を取らないすき家が悪いと言っているとしか思えない言い回した。警察の使命感はここまで墜ちたかと。
こんなことを平然というのであれば、例えば、「自転車の前の籠に荷物を入れていたら強奪された」とか「夜道を歩いているとき車道側にバックを向けていて、ひったくられた」、「おしゃれしてミニスカート穿いていたら襲われた」というのも、「犯罪を誘発している」と強弁できてしまう。きついことを言えば、慥かに「迂闊」であったかもしれないが、迂闊であることは犯罪ではないし、迂闊だったからと言って責められるべきことでもないだろう。最大に責められたとしても、「これからは注意した方が良いですよ」が適切だ。
 本来「誘発」というのは、「挑発」のレベルで考えるべきだ。例えば、相手を追い込んで「殴られた」とか、相手の逃げ場を封じたり、追い詰めたりした場合、初めて論じられるものだ。これなら「被害者」にもある程度の「行き過ぎ」があっただろうと思われるが、それでも果たして「過失」とまで言われるかどうか、微妙なレベルだ。
 一方、先に述べた例は、何等責められるべきことはない。もちろん過失でもない。
 一般人の話としてなら、「誘発したのかなあ」と話すことはもちろん構わない。しかし、権力を付託され、国民を犯罪から守る警察が、これを言ったらおしまいである。これが是とされるのであれば、あらゆる危難に対して、個人あるいは民間企業は、それに対処しなければならないのだろうか。極論すれば、「人を見たら『泥棒』と思え」と構えなければならないのか。ならば、アメリカのように自身を守る自衛権を強化すべきだろう。
 従来から警察は、「危難は、逃げられるものならその場から立ち去りなさい」と指導していたはずである。しかし、それを今問うと、「そんなバカなこと誰が言っているんだ」(あんただよ、アンタ)と開き直る。だったら、その危害を与えそうな人物と相対しろってことか。警官が来るまでその場に留まれってか。
 少し前まで、「日本は世界で一番安全な国」と警察は大見得切っていた。今は、犯罪を誘発することが「犯罪」かのような責め方をする。もちろん、「自衛」を考えることは企業とて個人とて、最終的には必要だろう。しかし、それも権力を付託した警察を橋頭堡として担保した場合での話だ。そうでなければ、ジャングルの論理が罷り通ることになる。それでも良いというなら、自衛権を返してよこせ。
 あらゆるものが劣化し始めている現代社会。警察もその一つであるのは、残念ながら彼らの言動を見ていると窺える。
 どうやって、この劣化を押しとどめるのか。当惑に立ちすくむしかないのか。
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